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追悼文 日刊建設工業新聞

追悼 近江栄先生-すぐれた研究者で教育者、幅広い価値観を育む

黒沢隆(建築家)

<日刊建設工業新聞 2005年2月4日(金曜日)>

 近江栄先生の体調については、この2年間、ずいぶんハラハラとして弟子たちは見守ってきたのだが、1月31日、ついに亡くなられた。肝臓癌(がん)をオリジンとする胸部大動脈瘤(りゅう)が、直接の原因となった。


 1926(大正)年生まれの先生は、近代建築史という領域で活躍された第3代の世代にあたる。ペヴスナーやギーディオンを第1世代とすれば、マンフォード、ヒチコックが第2世代にあたり、バンハム、スカリィ、ベンチュリーは第3世代にあたろう。


 モダニズムの展開に関するかぎり、欧・米・日の時間差は微少、この第3世代のなかに、川添登、山本学治、神代雄一郎、山口廣、村松貞次郎たちがいた。つまり、戦後における新制大学のカリキュラムのなかに「近代建築史」を根づかせた論客たちだ。


 「日本建築史」「西洋建築史」とならぶ、いわゆる三本立てカリキュラムの時代が開かれる。論客たちは、まずモダニズムを説き、その成立の深淵を掘りおこす作業をつづけ、あとにはモダニズムの限界をも論ずるようになる。そのような意味では、わが国における近代建築の定着とその後とを見届けた研究者たちでもあった。


 近江先生にあっては、コンペティション(建築設計競技)の専門家としても大を成したが、もともとはナショナリズムへ大きく傾いていく戦前の日本が、コンペを通じていかに「帝冠様式」をつくり出していったかを跡づけるものだった。


 しかし、これにとどまらず、建築家を志す卒業生や建築家一般に機会均等をもたらす手段として、公正なコンペの実現に力を尽くされたことは、人も知る通りだ。そのような意味では、なんとかして卒業生を支援しようとする並外れた教育者だったのである。


 とはいえ、年代以降のコンペや表彰、顕彰の機会を通じて、いわゆるポストモダニズムの傾向が雲のように広がる端緒となったことも事実だ。この渦中にも近江先生がいた。ポストモダニズムそのものが、ポピュリズムによるモダニズム攻撃の域をいまだ脱していなかった当時のことだから、私には残念なことだった。


 もっとも近江先生にはオーセンティック(正統的)な価値観に対する揶揄(やゆ)や反発も底にある。専業としての設計監理だけが唯一の正道ではないと主張され続け、工務店設計部にも多くの優れた人材を送って、その活躍を見守った。


 そして、プロポーザル方式などの新しい設計者や施工者の決定方式の推進にも力を尽くされた。多様な、あるいは幅の広い価値観を育(はぐく)んでこられたのである。


 近年、近い年齢の建築界の友人たちが現役を離れたとたんに「建築」から興味を失うのがつらいともらされた。その近江先生が卒業生に贈る言葉は、毎年、「建築」以外にも趣味を持て!だった。


 近江先生の「趣味」はクラシック音楽、なかでもテノールの声楽だ。戦後の険しい時期をともに生きてこられたのはマサ夫人、芸大出の音楽家だ。その楽識やピアノ伴奏なしに先生の「趣味」はない。別々の病院だったが、その奥様とほぼ同時に亡くなられたのは、なんともふさわしいこと、私ども弟子をほっとさせることだった。

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