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追悼文 日刊建設通信新聞

追悼 近江 栄氏 逝く

<日刊建設通信新聞 2005年2月3日(木曜日)>

こんなことって、あるのだろうか。鷹揚とした風貌と語り口から建築界で「近江さん」と慕われた近江栄氏旅立った。それもまるで愛妻マサさんのあとを追うように同じ日に。あまりにも美しく切ない。

研究、評論など多彩に活動、純粋で筋の通った主張は、その一つひとつに重みと説得力を伴っていた。建築界にとっての損失は計り知れない。

鷹揚さの中には、往々にして批判的な強い意志を秘めていた。そのほとんどが正論である。言うべきことを恐れず、正しいことは正しいと声高に主張した。この精神こそ、近江氏が評価されるべき点であろう。

主張の矛先は、建築界だけでなく、発注者にも向けられた。正論過ぎるゆえに、時には相手側に、「実社会を知らない」と疎んじられることも。一貫していたのは「モノ言えぬ(言わぬ)建築界の代弁者としての立場の堅持。全ては建築界のため、建築文化の向上のためのものだった。厳しさの中に愛情があった。だからこそ慕われたのである。

「出る杭は打たれる。でも出過ぎた杭は打たれない。出すぎる杭になろうと思った」。1996年、日大での最終講義で、OB・学生ら教え子たちを前に、こう自らを振り返った。この言葉が近江氏の生きざまを象徴しているように思える。

本紙の創刊50周年特集号第1週(2000年5月18日付)では、「21世紀への遺言-序章-悩める建築界へ」と題し、建築界への思いを語っている。20世紀モダニズムの検証に始まり、設計者選定や教育問題への提言、さらに21世紀の建築家像やデザインの可能性など、テーマは多岐にわたった。

「衆寡敵せず」。その際、ポツリとこう語り、賛同者が少ない苦悩と無念さをにじませた。

いま、あらためて「遺言」を読み返してみると、5年経った現在でもまったく色あせていないことに気づく。視点の確かさには驚かされるばかり。しかしそれは同時に、建築界がいまもなお、こうした問題を解決し得ないでいることをも意味する。残念なことである。

研究者としての近江氏は、近代建築史を中心に、歴史に埋もれていた建築家や建築にスポットをあてた。とくにコンペの研究で知られ、「コンペの近江さん」といった方が通りがいい。第二国立劇場を始め、多くの設計コンペやプロポーザルの審査を手がけた。

ただし、「熱烈なコンペの推進論者」と見られることに対しては。猛反対した。コンペの研究は、あくまでも研究の一環であり、自分は近代建築研究者との誇りからだ。その一方で、かつてこうつぶやいたことがある。「コンペにこだわるのは、やはり私学出身ゆえの悲哀のようなものがあるからかも・・・・・・・」

研究者としての近江氏を育んだ場は、官僚機構を始め日本の建築をリードしてきた本郷(東大)とも、私学の雄である都の西北(早稲田)とも異なる文化をもつ駿河台(日大)だった。このことが深くかかわっているというのであろう。

東大を頂点とした建築界の構図の中で、私学らの若い建築家たちは設計の機会を得る場は、どうしてもコンペなどに限られていた。すなわち、私学出身としての反骨精神のようなもの、その反骨精神からくる「若い建築家に参加の機会を」という思いが、コンペへのこだわりとなって現れたものと思う。

一方、教育者としては、「優秀な学生は近江研ばかりに行く」と他の教授が嘆くほど。「構造の日大」といわれるなかで、計画系から多くの人材を輩出、建築業協会主催の『BCS賞』など学外活動にも尽力した。研究などこれまでの成果は『日本近代建築史再考(虚構の崩壊)』(新建築社、共著)、『建築設計競技』(鹿島出版会)などに詳しい。

「建築大好き人間を増やしたい」。大学を退いてからも建築への情熱はまったく衰えることはなかった。普及のための実践の場が建築家フォーラムや中央工学校「STEP館」である。

昨年末の建築家フォーラムでのこと。衰えた体力を振り絞ってかけつけた。かつての近江さんを知る者にとっては、切なくなるようなか細い声。それでも「また昔の“美声”を取り戻し、みなさんの前で(得意の歌を)披露したい」と笑わせた。あの声を生で聞くことはもうできない。

でも旅立った近江さんに、こうご報告したい。「『衆寡敵せず』と嘆いていた賛同者は、しだいに増えてきましたよ。先生の意思は着実に継承されています。どうか、ご安心ください。お疲れさまでした」 合掌

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